ゆっくりと、楽しみながら、妥当な「自由で幸福な社会」へのヴィジョンを探るブログ
2013.08.16
たまには少し楽しい話をしよう。
2013年の現在では「行政と民間のあいだ」にはロクでもないものか退屈で抹香臭いものばかりが目立つが、2020年2030年の極近未来には「行政/民間」のような区分けにあさっての方向から破り入り割り込んでくる「民間による公益」が、これまた現在とはちがって、よりエンタテインメント/エデュテインメント方向に傾いてやってくるだろう、という話だ。


それは、いつものあの武雄市図書館とはむしろ正反対の姿でやってくる。
それは、使いたい人だけに使われ、使わない人にカネを要求しない。
それは運営する側の完全な自己責任によって為され、失敗すれば運営主体だけが損をしてオワリ、だ。
使いたい人々が「これを潰してはならん!」と強く思いより多く利用すれば、それは生きながらえる。


もう15年ほども前に私は、ほんの思考弄び程度に「図書館カフェ」というものを仲間うちで思い描きしゃべっていた。
そこから派生した「映画館カフェ」は日本の某所で実現化した。
ここで言いたいのは、この「私」「仲間」が先見の明あるイカしたやつら、なんてことではもちろんなく、実際に現れる新しい商業形態も「こうだったらいいな」という消費者/生活者の素朴な思いつきからスタートするのであり、それには必ずしもイケてる最先端人種の突出した頭脳が要るわけでもない、ということだ。

映画館カフェが図書館カフェより簡単で持続可能なのは、「映画好きな人間」は多岐に多様な形で存在するため、客層の絞り込み/ふるい分けが「緩く広く」で可能だからだ。
映画館カフェは既存(というか在りし日の)の映画館へのアンチ・テーゼであると同時にシネマ・コンプレックスへのアンチ・テーゼでもあった。
昔ながらの「一番館」は大枠「映画観終わったらさっさと帰ってね。飲食?コークとファンタとフリトレーでいいよね?」であり、「名画座」はマイナー/マニアックもしくはビンボーであり、シネコンは「映画なんてついで、楽しい総合ショッピング・モールで過ごす時間のついでの一部だよね?」である。
「マニアック」「映画好き」であろうとなかろうと
・長時間を自分なりのリラックス/リクリエーション時間として過ごし 
・カネがあればなんやかやとたっぷり飲食し/なければしないで 
・上映中の映画を観たければそのカネを払って観/観たくなければ観ないで 
・どんな客であろうと壁いっぱいの本棚の映画関係資料/書籍を楽しめる
そんな映画館カフェは、映画に特化させてはいるが図書館カフェの小規模ないちヴァリエーションであり、図書館ともカフェとも映画館とも競り合うことができ、最小限のカネで「粘る」こともできるがファストフード店より楽しく「やること」「得るもの」があり、最大限のカネを落とす気のある客をも満足させることができる。

それは完全に営利、民間での運営であるため「客に見放されればオワリ」であるものの、強力な「公益」性を併せ持ち、しかも使いたくない人はいっさい使わなくても済むものである。
それは常に閉店のリスクや経営難ゆえの愚昧でセンス劣悪な商業主義化と隣り合わせであるが、商売というものは多かれ少なかれ何でもそういうものである。
高くつく/センス劣悪なそれには、客はいつでも「もう使わない」と言うことができ、フィードバックと修正の有無は常に運営側の自由に任され、客にも運営側にも何らの義務・強制権も生じない。


こうした、民間の、営利目的の、公益に利する、新規性のある、客に喜ばれる、繁栄する施設/店舗/サーヴィスは、実はそのタネがいくらでもわれわれの日常と隣り合わせに転がっているものであり、資金/リスク/コストを引き受けようという個人/企業体には広い範囲で開かれたチャンスである。
「商売好き」な人は、その観点からだけでもこのブログを読んでくれれば幸いだ。
私にはタダで誰にでも分けてあげられるそんなアイディアならゴマンとある。


(ひいきの引き倒しにならなくもないが)リバタリアニズムが「小さな政府」「最小国家」を謂う時、「政府や自治体がやらなくても民間でやれることがいくらでもあるだろ」と言う時、「商売」は「自由と幸福」と完全に両立させられるものであり、行政につきまとうアンフェアネス — 不平等/収奪/強制を伴わない分、より効率的かつ公正に「自由と幸福」に益する、と言っているのだ。


受益者ひとりひとりが、自由な営利追求への自由な同意/不同意のうちに、顔も好みもクレームもあるひとりひとりとして、小中規模から大規模の商業/文化/公益施設を支持し存続させる時、受益者ひとりひとりの顔を問わない形の「公共」はなし崩しのうちに減り、そうなると初めて「小さな政府」が順当にいつのまにかに現実化に近づく。
「行政と民間のあいだ」には、実は無限の、同意と法の支配に依拠する自由と幸福へのトライアルの機会/未開地が転がっている。
そして、この未開地へのまなざしの面では、いわゆる「新自由主義」とリバタリアニズムのあいだには、似ているようで実は正反対方向に異なるものがあり、「官」と癒着業者の恊働に他ならないそれは最悪の収奪マシーンとなる。
武雄市図書館だろうが道頓堀プールだろうが、「自由主義」をお題目でなく考えることのできる人間なら、そこにあるトンデモ性は直感的に見抜けるはずなのだ。









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第一にリバタリアン。
次に、順不同でリベラリスト、コミュニタリアン。
ゆっくりと、楽しみながら、妥当な「自由で幸福な社会」へのヴィジョンを探っていきます。
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